第5回 日暮里寺院の林泉
〜その1
語り手:大江戸蔵三都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:上野なぎさ都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
江戸のお庭は庶民の謎?
この前、ちょっと梅雨の晴れ間があったから、紫陽花を見てきましたよ。
おっ、いいねぇ。どこに行ったの?
白山神社と六義園です。そのあと巣鴨まで足を伸ばしましたよ。いろんな紫陽花があって、綺麗だったなぁ…。
白山神社は昔から紫陽花の名所だからね。ところで、白山神社と六義園には紫陽花意外にも共通点があるんだよ。
え〜? 何だろ。場所はちょっと離れてますよね。
両方とも五代将軍綱吉に所縁が深い。白山神社は一時、二代将軍秀忠の命で今の小石川植物園のあたりに移転したんだけど、館林藩主だった頃の綱吉が江戸藩邸を造るために、また元の場所に戻したんだ。そんな縁があって、綱吉と綱吉の母である桂昌院が帰依して、大切にしたらしい。一方の六義園は、綱吉の側用人として権力をふるった柳沢吉保が、綱吉から賜った下屋敷に造営した庭なんだ。
ははぁ〜、綱吉つながりってことね。
この桂昌院っていう人は信仰心の強い人で、加えて綱吉は学問好き、親孝行大好きな人だったから、護国寺だの湯島聖堂だの、京都の善峯寺だの南禅院だの、お寺や神社をバンバン造ったんだよね。そのことが後の幕府財政に深刻な影響を及ぼすんだけど…。
でも、いいじゃない。そのおかげで今も文化財として残っているんだから。江戸の人たちもそう思っていたんじゃないの?
確かに公共事業が増えた上に、萩原重秀の悪名高い金銀改鋳で「元禄バブル」って言われるぐらい、空前の好景気になったからね。
バブルねぇ…。ワタシたちバブルを知らない世代にとって、バブルっていう言葉自体が魅力だわ。
まぁ、それはさておき本題に入ろう。広重の「江戸名所百景」に描かれた日暮里は2枚あって、1枚は前々回の「日暮里諏訪の台」、そしてもうひとつがこの「日暮里寺院の林泉」(写真左)だ。
へぇ〜。桜が咲いててきれいね。でも、どこを描いたのかさっぱりわかんない。
前々回を思い出して欲しいんだけど、西日暮里駅の南側、線路沿いに諏訪神社がある台地が諏訪の台。その諏訪の台を南泉寺のあたりから西側あたりから見上げた構図だ。
下の方が青く見えるけど、あれは池?
いや、あれも庭の一部だ。南泉寺の北側、諏訪神社の西側にあたる一帯に清雲寺、修性院、妙隆寺という3つのお寺があって、その敷地一帯がつながっていて、大きな庭になっていたんだな。
すご〜い。今でもあるの?
庭はなくなっちゃったね。お寺の方は、妙隆寺だけは世田谷に移転して今は玉川寺になっているけど、他はあるよ。特に修性院はしだれ桜がきれいな「花見寺」として今でも有名だ。ちなみに真ん中で人が登っている坂は富士見坂だ。
富士見坂なら今でもあるわね。富士山は見えないけど…。
日暮里はそもそも新堀というのが正しい地名だったらしいけど一日中いても飽きない「日暮らしの里」ということで「日暮里」という字が当てられた。この庭は、その「日暮らしの里」を代表するような名所だったということさ。
う〜ん、でも素朴な疑問があるんだけど…。
なんだよ、そもそもキミの疑問はすべて素朴じゃないか。
失礼ねぇ。例えば六義園って江戸時代からあったんでしょ。他にも浜離宮とか後楽園とか、東京には凄いお庭がたくさんあるじゃない。それなのにどうして日暮里のひなびた感じのお庭が名所になってるの?
ははぁ、なるほどね、確かにそうだ。でもね、それは現代人の感覚なんだよ。江戸はキミが指摘した通り、世界でも稀な庭園都市だった。でもね、その殆どが大名屋敷の中に造られた庭園で、一般庶民は見ることさえできなかったんだ。
え〜、そうなんだ! もったいない!
江戸の面積の半分は大名屋敷と大名庭園で占められていたっていうからね。その代わり庶民は狭い長屋にぎゅうぎゅう詰めだ。一部の例外を除いて、一般庶民のための庭、つまり公園という概念ができたのは明治以降の話。江戸時代の庶民にとって、大名庭園というのはむしろ「謎だらけ」の場所だったんだよ。
<次回へ続く>